昭和48年02月09日 秋永和気文満翁の霊神 告別式
本当に有り難いおかげの中に、秋永のお爺ちゃんの告別式を終わらせて頂きました。私は今日、この祭主を仕えさせて頂いて、ここに入りました途端に、驚き又は感動したのでございますけれども。今日はお写真がちょっと遅れておる。それで時間も少し遅くなったような次第でございました。もう出まして瞬間お写真を拝ませて頂いた時に、今朝私が、お夢の中に頂いたお写真、もうそのままでございました。
今朝朝の教話にも、その事を聞いて頂いたんです。もうこれ以上の喜ばしい顔はなかろうと言う、私はこんな写真初めて見ましたんですけれども。今日私が朝丁度三時ちょっと過ぎに、何時も目覚ましのおかげを頂くんですけれども。休んでおりましたら、枕もとに誰か来た様な感じであった。けれども誰も来ておりませんから、それから枕もとの電気スタンドを点けましてから、お礼させて頂いた。
もう私の枕もと一杯に、畳にお勇みがパチパチパチパチつかれるんですよ。そしてどうした事だろうかと思わせて頂いておりましてから、思わせて頂いたんですけれども。もうこれ以上の喜びの顔というものを、まだ見た事ないと言う程しの、それが丁度それこそ喜び一杯のお写真で御座います。あの通り。今朝から皆さんに聞いて頂いた通りでした。そしてそのお爺ちゃんがね。
丁度子供の様にバイバイをしながら、私から遠ざかって行く所を頂いた。手を振りながら所謂バイバイをしながら。お爺ちゃんがバイバイをしながら、どういう道を是から辿るのだろう。私共が信心をさせて頂いて、愈々分からせて頂かなければならない事を、お爺ちゃんは身をもって教えて下さった。それを私は本当に改めてそれを感じるのございます。最近親鸞聖人様のご本を読ませて頂いております。その中に成道という言葉が出てきます。道を成ると言う事。又は成仏という言葉が出て参ります。
私は不思議で堪らなかった事があるんです。親鸞聖人様がどんなにお徳の高いお方であったかも知れんけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば成仏が出来ると。どういう悪人であっても、業の深い人であっても、南無阿弥陀仏、六字の冥語を唱える所にです、所謂助かることが出来るんだという風に聞いておりました。けれどもそれはね、あまりもの事だと思うんです。けれどもよくよく考えさせて頂いておりますとです、所謂成道と言う事。道が成って行くと言う事。
ただどんなに悪人であっても、南無阿弥陀仏とすがる気になった時に、それは親の願いでもあり、又はそれが仏教では弥陀と申しますかね。弥陀の本願なのだ。弥陀の願いなのだ。それはどういう例えば善人ですら助かるのだから、もう悪人においておやその悪人をも助かって貰わなければならない。その悪人が南無阿弥陀仏を唱えさせて頂く所から、成仏出来るんだ。という道を説かれたのが親鸞聖人。それで南無阿弥陀仏さえ言えば助かるてなんて、南無阿弥陀仏とすがる気になる所から、所謂道を教えて貰う。
そこから成道道が成って行く訳です。そして始めて成仏するんだと。どんな悪人でも南無阿弥陀仏というたら、もうその場で仏様になれると言う事ではないと言う事。是はお道の信心においても同じ事が言えると思うです。金光様とおすがりする限りです、そこにはおかげの道は勿論ですけれども、真実神に向かう道を指し示して頂くのが教祖金光大神。ご自身が頂き、そのおかげの頂き始め。皆もこの様なおかげが受けられる。しかも屑の子ほどが可愛いという神様の願い。
所謂弥陀の本願なのである。人間氏子の全部が助かってくれよと。そこを信心しておかげを受けてくれよと、教えられるわけなんですだから、金光様と言えば、もうそこで神になれると言う事ではない。み教えの中狐狸ですら、神になると言う事を喜ぶと言うではないか。まして人間万物の霊長なれば、死したる神になり神に祀ら、神になる事を楽しみに信心せよと教えてある。
お互いが亡くなって、金光様の信心しとったから、もう直ぐ神様になる。神に祀られると言う事を楽しみと仰るけれども、直ぐ神になれると言う事ではない。けれども神になる道をです、教えて下さるのだと言う事。神になるその道を教えて下さる。それを先ず南無阿弥陀仏とすがる気になれば、それを本当の仏になる、成仏が出来るように導いて下さるのがいうならば、仏教真宗仏教でいうならば、親鸞聖人様でありましょうし。
それは何故かと、それが弥陀の願いなのだから本当の願い、弥陀の本願なのだからであります。天地の親神様の本願なのです。人間氏子が真実幸せになってくれよと言うのが願いなのである。それは真実幸せこの世で勿論幸せ。だから金光様の御信心この辺が違う。死んでから成仏するというのでなくて、もうこの世で生神になる所の稽古をさえせて貰うんだと。私は今朝のご理解に、皆さんに聞いて頂いたんですけれどもね、私の一番もし素晴らしい神様が魅力を感じて下さるならどこだろうかと。
どこに取り柄とてないけれども、私が何時も生神を目指しておると言う事なんだ。此方のことを、生神生神というが、皆もこの様なおかげが受けられる内容をお互い持っておるんだ。だから生神になる道を辿らせて頂くと言う事なんだ。それがお道の信心。ですからどうでも、生神に神に向かう姿勢というものを、正さなければならない。それを最近ここでは大改まりと言っておる。わが心が神に向こう。
それをご利益の方ばっかり思う。病気が治る事のばっかりお願い抜いとる。じゃなくて、わが心が神に向かうと言う事が信心なのだ。私はそういう例えば今合楽で言われておる所の、成り行きを大事にするとか、御事柄として全てを受けていかなければとか、大改まりに改まらなければとか。と大変に噛んで含めるように、しかも又は難しく深く、広く説いて頂いておるのですけれども。
秋永のお爺ちゃんだけはね、そういう難しい事を聞かんなりに、そのまま生涯が、それであったと言う事をね、私は昨日一昨日気付かせて頂いた。もう改めて気付かせて頂いた。一昨日の夕方、危篤状態のお届けがあった。それから直ぐ亡くなられたというお届けがあった。神様にその事をお届けさせて頂いておりましたら、一番に頂いたのが和楽と言う事を頂いた。平和の和である。だから直ぐそのままを書かせて頂いた。
平和の和と楽合楽の楽なんです。それを頂いて初めて秋永のお爺ちゃんという人は、和楽の人であったなと言う事。しかも和楽の徳を受けておったなと。自分でも気が付かなかった。皆さんもご承知の方もありましょうけれども。お爺ちゃんは大体、生粋の江戸っ子である。あちらで酒屋さんの息子さんとして生まれられた。そして自分はそれこそ、昭和の左甚五郎を目指して職人になられた。
その腕が余りに見事で九州に招聘された。九州でこの久留米の例えば、「丸万」とか「モリシン」とか。昔有名なお店がありましたがね。そういう所の彫刻物は、殆どお爺ちゃんの手に掛っていると言う事を聞いた事がある。という程しにまぁ有名な職人さんであった。で、こちらの方へそうした縁があって、こちらに見えておって、そして世話する人があって、秋永の家に養子に見えたのです。
そりゃ皆さんもご承知の通り、中々の粋人であった。もう踊りを踊らせても、三味線を弾かせても、もうそれこそ歌でも歌わせたら、それこそ玄人はだしと言う様な素晴らしい声の持ち主であった。ですから随分道楽もされた事だ。それからです今ここに見えております、信子さん、秋永先生出来られてから、それから東京に又帰られた。帰られて随分長い間、そのまま音信不通であった。さぁ二人の子供を抱えてもうお婆ちゃんが、それこそ死ぬほどしの難儀をされたと言う事である。
あまり苦しいので、もう死んだ方がましと思うた。頼りにする人はなし、そういう時にです。たまたま近所に、三井教会の御信者さん、篤信の方がおられた。それでとにかく一遍、金光様のお取次ぎを頂いて、一つ心のうちを助かりなさいと、そりゃ苦しかろうと。けれどもとにかく、信心しておかげを頂きなさいと言うて、導かれなさったのが、三井教会初代の荒巻弓次郎先生のお取次ぎを頂かれる事になったのが、お道の信心の秋永の家の始まりである。
それから持ち前の、あの勝気なお婆ちゃんでしたから、もうそれこそ熱烈な信心が続けられた。そこに信心の有り難いものが分かって来た。そこへあの大正十三年の大震災でございました。これは私は丁度当時、お爺ちゃんもお婆ちゃんも、私が二十年前の共励会が、ずっと私が行きよりましたあの時分は。ですからもう筒井辺りから、田主丸は勿論ですけれども山本辺りまでも、二人で見えよった。
その時に体験発表をお爺ちゃんがされた事を、私は改めて思い出させて頂いたのですけれども。そういう所謂自分の道楽時代。又はあの東京大震災がなかったなら、今日の秋永はなかと言われるほどしのです、もうそれこそあの大震災に合われて、命が助かり命からがら、もう裸同様で馬渡に帰ってこられた。所謂おかげを受けられたわけです。そしてです心にそれを、堅く堅く誓われた。
もうこれ程しの、例えば難儀苦労を家内にさせた、お婆ちゃんにさせたのだから。もうこの婆さんがどげん喧ましゅう言うたっちゃ、是に言い訳どんするまい腹は立てまい、不足は言うまいと決心したと言うておられました。所謂一心発起である。成程そう言われればです、お爺ちゃんが腹かかれた顔を見た事がない。何時もにこやかである。いや初めの間はそりゃもう本当に立てとるけん、言わんばってん立てとるけん思わんけれどもと言う様な事もあったろうけれども、それを段々続けていかれる内にです。
それが本当なものになって来た。所謂秋永の「ぶんのすけ」の心の中に入りこんでしもうた。私はそれからね、本当にもう驚きました。大正十三年からこう繰ってみると四十九年になる。四十九年のことを、一番しかも素晴らしいこと。一番不平は言わん不足は言わん、腹を立てないという修行が四十九年間続けられたと言う事がです。もうこれは、もうどうしてこんな素晴らしい事を、私共は今まで知らなかっただろうかと。亡くなられて初めてただ良い人だ。とにかく心の美しい人だ。
何時もにこやかな人とだけしか知らなかった。今合楽で言われておるです、成り行きを大事にすると言う事も、御事柄として受けていくと言う事も、そういう理屈を抜きにして、それが四十九年間、五十年という何何とする年月をですね。一貫して過ごされたという事は、大したことだなと私は思うた。いやあっちの息子達は、中々信心のセンスが良い。なかなか感覚が素晴らしい、信心の事に限ってだけは。高い低いとだけは、ちょっとおかしいですけれどもね、本当に素晴らしいと。
けれどもそういう例えば、母親の熱烈な信心と、そういう黙って受けて受けて受け貫かせて頂く泥のような信心。大海のような信心の、二派の中にそういう基礎、基盤が出来ておる所へ、良い種を蒔かせてもらうから、良い物が芽立つはずだと言う事です。私は先日から、秋永先生がお参りして来てから本当にもうその、私は有り難い有り難い有り難い、もうただその時恐れ入ってしまう、恐れ入ってしまうと言う事を申しました。今日私はここで出て来てから、一番初めに驚きでした。
いやぁ今日私がお夢に頂いた、そのままのお顔であったという事。けれども神様の一部一厘の間違いのない働きの中に、こういうおかげをキャッチし続けて行けれるという信心は、何と有り難いことであろうか。とにかく恐れ入ってしまうなぁと。先ほどいわば弔辞にも、皆さんがお読みになられたようにです。例えば兄弟三人揃うての、展示会があった。もうそれ前から悪かった。けれどもその頃、おかげ頂いとった。もう危篤状態かと思うと又おかげ頂いた。
先日麻生さんがお参りをして来てから行きましたら、もうとにかく顔色が良くて元気が良い。ほうれでもう私は、おりゃ百までぐらい生きるち言うちから、冗談どん言いなさってから、とてもおかげ頂いちゃりますというのが、私は最後だったでしょう、様子を聞いたのは。それから秋永先生が、展示会が終わってお礼に出て来て、最後に父もおかげで、こげな風でおかげを頂いとると。もう本当に恐れ入ってしまうなぁと。
そしてその日に後片付けも済んだ計算も済んだ。全部の者が集まってさぁ今から何処か食事にでも行こうかという時に危篤状態になられた。昨日安東のお父さんが来てから。お届けされますのに、親先生極楽往生ちゅうのは、秋永のお爺ちゃんを見て、初めてあれが極楽往生じゃろうと思いましたとこう言う。それは死に顔の美しさとか、そうじゃなくてです、その後先の神様の御働きがね、素晴らしい御働きの中にある。
そしたらその時私が頂くとが、あの良江さんが何時も作ってくれる、ありゃ何とか言いよったっけ。シュークリームシュークリームの下にこう、紙の座を付けるでしょうが。あれを頂いたです。いわゆる神の座です。もう本当に恐れ入ってしまう。私は信心とはね、そういう例えば驚きと言う事は、感動と言う事でしょう。感動とそういう恐れ入った生活こそが、信心の生活だ。
成程子供達が例えば先生がここの信徒会長として。文男さんがここの信心の権威と思われる、所謂菊栄会の副会長として、各共励機関があります、その共励して回る所には、必ず文男さん出席して、所謂信者の指導に当たらせて頂けれるほどしの信心を頂いてある。嘉朗さんはここの青年会長として、孫の大将の徹さんな去年学院にまで行って、そして金光様の先生にまでならせて頂けると言う程しのおかげがです。
子供達の信心が素晴らしいからではなくて、そういう例えば五十年間に渡る、親の信心の徳というものがです。培われておったからこそ、それが出来ていきよるんだと言う事です。今日私は今日申しました。本当に秋永先生が、お爺ちゃんの信心ば頂いたら、もう鬼に金棒じゃろうなぁて言うた事でした。お爺ちゃんにはそこのところが欠けておった。ですからまぁだ成道と言う事になっていない。道が成っていない。バイバイをしてから、私にさよならを言うたが、ほんならどういう道を辿るだろうか。
愈々成道の道を是から辿る事であろう。愈々まぁ成仏と言う事を、お道でいうなら、成神と言いましょうかね。所謂わが心が神に向こうていくという姿勢をもって、そのはっきり伺われる所の道をです、辿らせて頂く事であろう。信心をさせて頂いて、私共が毎日毎日、もうそれこそ二十年間私が言い続けて、分からんそして分かっとらん、皆さんな。その分かっとらん所をお爺ちゃんは、理屈も何も分からずに、御事柄として受けて行っておるのであり、成り行きをそのまま大事にして来ておるのであり。
そして向きを完全に、神の方へ、自分も気づかんなりに、向けておったと言う所にです。お爺ちゃんのにこやかな日々の信心生活があったんだとこう思うのです。昨日若先生が、お祝詞を書かせて頂くと。けどもお爺ちゃんの事を良く知らずしてから、あんたも祝詞を書いたっちゃ、よか祝詞が出来るはずないて。だから、私は、明日お話をする。このお話はいうなら御霊を称えるお言葉を以って綴るので御座います。
ですから、御霊も聞くなら、皆さんにも聞いてもらうと言う事は、お爺ちゃんのそういう、例えば一心発起の一念の強さと言うか、しかもそれを五十年間続けていかれたという、そういう信心を私共は、夢のように思うて憧れておるわけなんです。それをお爺ちゃんは、やって退けておられたという事が、もうどんなに考えても素晴らしい。だからここにおられる皆さんの全部が、このお爺ちゃんのいうならば、半生を又は日常の事を知っておられるからです。
あれが金光様の御信心であり、あれが私が何時も日々言うておる事は、あれを身に付けたいばっかりなのだと。今朝から私が神様に好かれる、一番神様が私に魅力をもし感じて下さるならば、どこだろうかという事をです、神様に私お伺いをさせて頂いたら。あの富士山、あんな富士山は始めて拝ませてもらった。もうあの芙蓉という一番頂上の所だけが出てあとはもう、真っ白いとか真っ黒の、雲がこう渦巻いておるような。
雲で覆い隠されておるという。ただ芙蓉の所がちょっと出て、あっ富士山だなぁと思われるような場面を頂きましてね。ははぁ私が何時もいうならば、富士山でね所謂日本一の私を願っておると言う事。それは日本一有り難い私にならせて頂こうという、願いをそこに何時も焦点においておると言う事がです、神様が私に魅力を感じて下さるなら、その事らしい。ですから鬼が出るじゃろうか、蛇が出るじゃろうかという様な真っ黒な雲。それこそあの龍が龍巻く、そこをこう龍が昇天する時にね。
今日は丸きり大祭のごとあるですね。本当にね私はそんな気持ちがするんです本当。昨日からもです皆さんがここの御用を一生懸命してくださる。全部ご信者さんでして下さった。まるきり大祭の準備のごとあるのと言うたことでございました。お爺ちゃんが頂かれる、和の楽。もうこげな楽な事はないです。秋永先生が先日もう本当に有り難い事は、あげんして危篤状態に何回もなって、もう日田のお掃除なんかん時でも、お爺ちゃんが、他んもんには絶対扱わせん。
もう家内でなからにゃ出来ませんち言うた。いかにね家内とお爺ちゃんの、それがこう交流しておったかと言う事が分かるでしょうが。どちらかに何かがあるなら交流しないです。是だけでもいかに本当に素晴らしいか、内容が分かるです。それこそもう是以上の喜びなんかはなかろうと思われる様な顔で、私にバイバイをしながら、辿られる道というのは、そういう愈々成道の道を、所謂神になる道を愈々辿られる事であろう。
後々の者が秋永一家だけではなくて、合楽に御神縁を頂くすべてがです。あぁいうあり方に信心によってなされるという所にです、私共の願いがかけられなきゃならない。合楽で言う成り行きを大事にする。御事柄をして受ける。大改まりと言う事は、神の方へ向かってしまうことだと。是が信心だというその全てをです、訳は分からんなりお爺ちゃんは身に付けておられた。
しかもそれを四十九年間も、もうとにかく信心のある者がね、まぁ出来んちゃ歯痒いかごたる感じです。けれどもこういう一つの、生きた手本があるのでございますから。私共がお爺ちゃんあの告別式を境に、本当に改めて一心発起して、こうなったあぁなったと言う事になればです、お爺ちゃまも喜んで下さるだろう。同時に神様も金光大神も、そしてお互い私共自身も助かる事なのですから楽な。
腹かかんで済むと言う位楽な事はないです。不平不足を言わんで済むぐらい楽な事はないです。それを信心しよっても、教えを頂いておっても、そういうものが中に、いっぱい渦巻いておると言うのですから、本当に助かり難い私共だとこう思うです。そこを一つ本気で改めさせて貰うて、おかげを頂いて行きたい。今日は私お爺ちゃんの前で唱える、いうならお祝詞と思うて、皆さんにお話を聞いて貰うた。
お爺ちゃんもこの事を聞いて下さった。ははぁほんなら私が辿って来た五十年。半生の生き方というものは、そんなに素晴らしい事だったか、改めてお爺ちゃんが気が付かれたような感じが致します。どうぞ本当に、これを境にと言う様な事は、御大祭の時にしか言わんのですけれども、本当にこの告別式を境に、私共が愈々お爺ちゃんの、いうならば生き方を、生きられ方を一つ学ばせて貰い、おかげを頂きたいと思うのでございます。
どうぞ。